テクニックは、手法として捉えることで「運動」になる!

テクニックは、手法として捉えることで「運動」になる!

楽しい会議の話はいっかい休みにして…。

最近は、教職員組合運動と親和性が高い…とされる様々な「学び」があるとされ、紹介される機会が増えています。コミュニティ・オーガナイジングもそのひとつです。

また、ないとうがよく話すSNSのことも「新しい話題」という点では、「様々な『学び』」と共通点があるかもしれません。

その「共通点」は、カタカナが多く、とっつきにくいということです。

試しに、最近ないとうがよく実践発表で話しているコトから、カタカナだけを抜き出してみます。

インサイト フィルターバブル ナラティブ インプレッション オウンドメディア ストーリー



どうしても、カタカナを使ってしまうのではありますが、それでもないとうが心がけているのは、できるだけひらがなに置き換えることです。

「それ、どういう意味!?」

「なんか、私にはわからないことを言っている」

どんなに優れた手法でも、こんなふうに思わせてしまってはいけないのです。最初の印象がよくなければ運動にならないからです。

テクニックだけを語ることは分断につながりかねない

そんなふうに思うようになったのは、コミュニティ・オーガナイジングやSNSのことを話すようになったから…ではあるのですが、さらにその根底には、「宗谷の教育研究運動」を見聞きした経験があったように思います。

「宗谷の教育」の中で、特に教育研究運動の歴史は少し複雑です。

ひとことで言うと、「それぞれの学校の学校研究を土台にする」ということになるのですが、主義や主張によってはいけないということが同時に言われているのです。こうした歴史から、宗谷には、民間教育研究運動や、全国的な教育連盟の流れを汲む実践は広がっていなかった歴史があります。

1990年代に坂本光男さんが教育研究運動に深く関わりをもちますが、そのときも「全生研の坂本さん」ではなく、ひとりの教育実践家として招かれている風潮を記録から読み取ることができます。

「主義や主張はセクトにつながる」―――そんな課題意識があったとみることができます。そこに生まれる分断を少しでも取り除くための「作戦」のようなものだったのではないかと感じています。

ここから学ぶとすれば、カタカナが多いと紹介した様々なテクニックも同じように、そのままを語ってしまうと分断につながりかねないのではないかということです。

コミュニティ・オーガナイジングの「『手法』を取り入れる」

2020年2月にリーフレット「with you」を発行しました。この中で、コミュニティ・オーガナイジングについてふれています。

このときに学んだのが、私が紹介したいのは「コミュニティ・オーガナイジングの『手法』を教職員組合運動に取り入れたいという『思い』」であるということです。

長いので、一般的に語るときには「コミュニティ・オーガナイジングの手法」ということにしています。

この「コミュニティ・オーガナイジングの手法」は、ひらがな化してるし、ないとうが知っている教職員組合の教訓を踏まえて「意訳」しているので、純粋なコミュニティ・オーガナイジングではありません。

純粋なコミュニティ・オーガナイジングを知るには、コミュニティ・オーガナイジング・ジャパンが実施しているフルワークショップを受けるべきです。もちろん、教職員組合をひっぱるたくさんの人がフルワークショップに興味をもち、受講するようになるのは相当ハードルが高いでしょう。

そんなふうに、教職員組合の歴史や、手法を教えてくれたコミュニティ・オーガナイジング・ジャパンのみなさんに敬意をもった上で「語らせていただく」という感覚でいけば「コミュニティ・オーガナイジングの手法」と言わなければならないことに気付いたのです。

「その『手法』いいじゃん!」となるために…

「教職員組合に役立てる」と場面を限定したときに、どんなに優れたテクニックであっても、まわりの人に受け入れてもらわなければ、その先の展望をもつのが難しいものです。SNSによる「教職員組合のアップデート」がなかなか進まない要因のひとつはこれ、なのでしょう。

宗谷における坂本光男さんの存在のように、後世に伝説となるくらいに、わかりやすい言葉で語ることが大事なのだろうと思っています。教職員組合における「運動」とは、よさを共に感じ合う人たちの輪が広がることなのでしょう。

未来の教職員組合に展望を持てるよう、アップデートさせたいと思ったとき、そんな輪が広がるように、「ひらがなで語る」みたいな仕掛けを考えていくことが大事なのです。

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