どんなときも教育の希望を紡ぐ

どんなときも教育の希望を紡ぐ

あまりこのホームページでは「自分の意見」的なのは書かないようにしていきたいとは思いつつ、昔Facebookにあった「ノート」的な感じで書いてみようと思うのです(もっとも、Facebookのノートは公開しないこともできたのですが…)。

これまで20年以上、学校という場所で働いて、その中で教職員組合運動に関わった時代がありました。こうした中で、さまざまな教育課題が立ちはだかり教育運動を仕掛けるということを見たり、企てたりしてきました。宗谷の教育運動は厳しくも優しさがあるものとでも言うのがふさわしいのではないかと振り返っています。

困難が生まれる。そのとき、その背景の課題=困り感で一致する。

宗谷の教育運動の特徴は、困難が生まれたときにその「諸悪の根源」を否定することで一致するのではなく、そこに生まれた課題で一致するということではないかと思い出します。

こんな道理にそぐわないことが起こっているんですよ

それってどんな困難性があるの?

子どもも先生もあんなんでこんなんで困っているんです

その困り感をどうにかしないといけないってことだよね

こんないぶし銀の会議さばきを教職員組合の機関会議で何度も見たのをふと思い出しました。

これって、「諸悪の根源」の良くなさで一致するのではなく、「その困り感をどうにかしよう」という『希望のようなもの』で一致しているということ…ではないかと思うのです。悪口のようなネガティブな思いではなく、課題とその先に見える希望のようなもので一致するということです。

評論家ではなく実践家として

それっていうのは、

「希望で一致して共にがんばろう」

ということなのでしょう。

「諸悪の根源」を否定するだけの“評論家”になってしまうのではなく、実践や運動の具体を通して世論を味方にするやり方に教訓がたくさんあって、だからこそ実践家として希望を紡ぐのが教育運動なんだろうと思うのです。

私は、それでも希望を紡ぎつづける。

そんな「諸悪の根源」みたいなのばっかりな教育現場…みたいなことを言われる昨今。

もしかしたら教職員組合の会議では「諸悪の根源」みたいなものの良くなさで一致できるのかもしれないけれど、職員室ではいつもそうとはいきません。

職員室で働いていて「諸悪の根源」みたいなラスボス級の、例えば、はぐれメタル級の悪と対立することはないけれど、スライム程度の悪、すなわち困ったことはけっこう日常茶飯事です。だからこそ、子どもの姿を語りながら希望を紡ぎつづけるのです。

ふと、いぶし銀の会議さばきを思い出して、新年に際し、改めて希望を紡いでみようと思ったのです。

TOP